中国から伝わった山水画を日本独自の文学とした雪舟は画家としては遅咲きだった。
そもそも雪舟は、涙でネズミの絵を書いたという逸話が残っているように、絵は相当上手かったと言われている。
雪舟は京都の相国寺で山水画の勉強を始めるのだが、全国各地からライバルが集まって来ているので、その中で雪舟はずば抜けて上手いとは言えなかった。
その上、京都の都では権力争いが始まったので雪舟は京都を離れることを余儀なくされた。
次に雪舟が身を寄せたのは山口・大内氏。
都から下ってきた雪舟は大内氏にとって便利な人物だった。
当時、明との貿易が盛んだったため雪舟の書いた山水画は大変重宝され、また仕事もこなすのでお気に入りの人物になった。
そして雪舟に転機が訪れる。
大内氏の派遣する遣明船に乗れ、中国に渡れるというのだ。
これは願ってもいないチャンスである。
この時、雪舟は48才だった。
中国から戻ってきて、遅咲き(50才を過ぎてから)らしく、作品を書くために全国行脚の旅に出る。
そして旅先で仕上げた「破墨山水図」でやっと中国を超えたと高らかに宣言する。
何が言いたいかというと、雪舟は作品のうち6点が国宝に指定されている。
もし未発表の雪舟の作品を見つけたのなら、高価買取は間違い無し。
そのような日本画の買取額ってどのくらいのもなのか、
いささか興味が湧くというものである。